この投稿は、2020年は2月の28日にメッセンジャー に記していた雑記を、ブログ用に纏めたものです。
この投稿では言葉の使いかたにつきましてを記してみますが、日本語を母国語とする日本人も、何やらと読解力の低下につきましてが、もうの何十年と前から言われてもいて、それは私にしてもそうですが、そのような私でさえ、ついついと老婆心が出るほどです。とは言えども、私にしても、まだまだの体です。
この投稿で記していますは、言葉の使いかたであり、この問題について、どちらが正しいかということではありません。
さては久し振りに能動的に検索をしましたらば、toggtterいうTwitterのまとめを記しているところのひとつに、日本語の使いかたにつきましての話題がありましたので記してみますと、現代アートの祭典につきましての、有本 香さんのTwitterでの発言にある、
- ひとりの日本国民として
という言葉の意味につきまして、一括りにしているかそうではないかの話題があり、これには、有本 香さんのほうが正しいとする《この言葉は日本国民として一括りにしているわけではない》というものと、室井 佑月さんの言としての、《一括りにしている》というものがあるわけです。
結論から記しますと、室井 佑月さんの言で正解であるわけです。
普通であれば、《ひとりの◯として》という言葉の使用をする時分にですと、《◯とはこのようなものであり、そうであることは、多くの◯若しくは◯を知る人の共通認識や共通の観念である》という意味合いが隠されているわけです。
例えばですも、
- ひとりのスポーツマンとして、それに恥じない行ないを心掛けます。
とすれば、スポーツマンとはこのようなものである。ということが、習慣やら風習やら環境などにより構築をされる姿や、人格者、つまりは素晴らしい人としてのイメージというものが元々あり、それを頼りにしているわけで、決してひとりのこととしているわけではないんです。
例えばですも、
- ◯に恥じない行ないを心掛けます。
- ひとりの◯として、その名に恥じない行ないを心掛けます。
のリストのふたつは同じことであり、リストの2番目は幾分なりと《◯の中のひとり》ということに比重を置いているわけです。 日本語の使いかたと致しましては、室井 佑月さんは、やはり作家さんですね。というか普通のことです。 同人さんによるこのことに対しましての説明と致しましては、 《ひとりの◯ということは、◯のひとりであると言っているので、一括りにしている。》 とのことであり、これは正解であるわけです。
また、一括りにしていないとするほうですが、 《主語の省略をしているだけであり、主語を付けているので一括りにはしていない。》とのことですが、主語の付加をしても、変わりません。
- 私は、ひとりの◯として、その名に恥じない行ないを心掛けます。
ね。変わらないんです。
それから、この言葉が良い意味であればいいですが、同調圧力というものや、悪い意味に使われたときには、大変であるわけです。 例えばですも、子供の頃はそれぞれにヒーロー入ると思いますし、逆に、回れ右をしているときに、一人だけ回れ左をしたり、学校をサボることはいけないことですし、サボるのに仲間を引き込んだりすることは、もっといけないですね。
また、あくまでもこの頃のことと前置きをした上での書ですが、新型肺炎のことでの麻生副首相の言として、学校の休校をしたらお金は政府がだすことは当たり前である旨ありましたが、それに続けての、つまらないことを聞くな。という言についての揶揄がありましたも、これも、新型肺炎に掛かったことに対しての休校などがつまらないとしているわけではなく、政府がだすことは当たり前である。という言に掛かっているわけです。 幾らの予算を組んでいるのか?とか、そのようなことはまた別問題であり、反論をするほうも、そこを言うは当然ですが、掛かっている部分の理解ができていないかた若しくは故意にそのようにしているかたもいますね。 まあ、その後にどのようになっていくのかは、また別の問題ですね。 *最後の行は当時のことですので、そこから色々なことが変化をしてきましたので、そのことのお断りをしてこの投稿を終わります。
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